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山野井夫妻、白馬へ行く。【第1話】
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| ある朝、妻の静の言った。 「あーどっか、行きたいわ!」 私は朝食の納豆を取り落とすぐらい驚いた。なぜなら、戸隠への旅行より帰って来た翌朝だったからだ。 常に前進を試みる妻の姿勢にはいつも感服させられる。 「そうだね。またしばらくしたら、どこかへ行こう」 「しばらくってどのくらい?」 すごい。うちの営業マンにもこのぐらい突っ込む勇気があれば、社の売り上げは上昇グラフを描いてくれるだろうに。 「うん、また秋にでもなったら…」 「秋は、秋。秋なんて言ったら、もうひとつ向こうの季節じゃないの」 「じゃあ、夏にしよう」 「夏だとしても、いまから計画をたてなくちゃ」 「わかった、早急に検討することを約束するよ」 「検討を約束するんじゃなくて、行くことを約束して」 政治家が皆女性であったら、日本の社会はどのように、どんなスピードで変化していくのか、非常に興味深いところである。 「じゃあ、一体きみはどこに行きたいというんだね」 「だから、言ってるじゃないの。どっかに行きたいって」 「…そうだね、二度も言わせてすまなかったよ」 「あなたってば、いつも話をちゃんと聞かないんだから」 「ほんとうにすまない」 なぜか謝ってしまう、山野井譲、四十八歳、某一部上場企業営業部長であった。 「まず、ジャンプ台を見に行こうか」 ![]() 「オリンピックね」 「うん、ノーマルヒル、ラージヒル共に、エレベーターで上がれるんだ」 「あなたってすぐ英語を使うのね、日本語で言ってちょうだい」 「え?!…普通の丘、高い丘…」 「ああ、わかりやすいわ」 長野冬期オリンピックの感動の場となった白馬ジャンプ競技場は、選手が体感するそのとてつもない高さまで上がることができ、ジャンプという競技には、肉体の訓練はもちろん、いかに精神力が必要かということがわかる。人が鳥になる場所だ。 「いやっこわーい」 そんな可愛いことをいうのは誰かと思ったら、意外なことに自分の妻だった。 ![]() 「すごい高さだね。よくこんなところから飛べるものだ…」 「ほんとね。私思うわ、あんまり遠くまで飛べないとテレビ見て怒っちゃったけど、もう、怒らないようにする」 それはそれは、選手もさぞかし喜ぶことだろう…。 白馬オリンピック記念館に寄り、選手が実際に使用したウェアなどの展示物や、あの時のビデオの上映で感動を再び味わった。ウインタースポーツにはあまり明るくない私だが、あのときだけはテレビに釘付けだった。選手と観客の感動を再び目にして、私は目頭が熱くなるのを感じた。 今日の宿泊は和田野の森という場所に建つホテルだ。 白馬は不思議な場所で、駅近辺にいると広々とした印象を持つが、和田野など、奥へと入っていくと、林に囲まれ、急に山麓を意識する。空気もひんやりと肌に気持ちよく、壮麗な雰囲気だ。 「あなた、素敵なところね、白馬って」 「そうだね、わざわざ白馬に来て結婚式を挙げるカップルもいるし、かといって、我々のような年配のものたちもすんなりと受け入れる。許容量の大きなところだ」 「こんなところで、式を挙げたら絶対幸せになれそうね」 珍しくしっとりと妻が言うので、やはり女性はいつになってもロマンチックなのだなと思いきや 「ま、でも、結局は経済力だけどね」と言い切った。 『和田野の森in白馬』 はレンガ造りの門がパッと目を惹く林に囲まれた瀟洒なホテルだ。プライベートを守れる客室に、ゆったりと楽しめるジェットバス付の天然温泉大浴場、それでいて利用する側の気持ちに立った料金が、魅力のホテルだ。 「ねえ、ねえ、あなた、レストランが別棟になっているのよ」 「へえ、それは日本では珍しいね」 さっそく詮索好きの妻がオーナー婦人にいろいろ聞いている。 「冬の寒いときなどは、わざわざ足を運んでもらうのはどうかなと思ったりもしますけど、その分十分満足いただけるように、召し上がっていただくものには、一番気を使っているんです」と笑顔で答える。 「ご馳走様でした!って、皆さんがにこにこと笑ってお部屋に戻られるのを見ると、ほんとうによかったって、そう思うんです」 妻はうんうんとうなづいて 「だって、奥様、家にいるときは玄関の続きのようなところで食事してるだから。場所を変えて食事ができるなんて、こんな贅沢はないですよ」 玄関の続きとはひどいと思うが、確かに外国などではリゾートを楽しむのに、レストランは重要な要素のひとつなのである。 「ちょっと、あなた、ワインついでくださらない?」 「あ、すまない。もう飲んだのかい?」 「おいしいわね、ここのオーナーさんはソムリエでもあるんですって!」 「ほほう、どうりで。ソムリエという仕事は料理にも精通してなければできないからね。このフルコースは大したものだ」 「ね、あなた、ワインついでよ」 「え?!また飲んでしまったのかい?」 「だって、おいしいんですもの」 「うん、お話を伺ったところ、オーナーさんが美味しいワインをリーズナブルに楽しんでもらうために、奔走しているそうだよ」 「リーズナブルって?あなた、英語ばっかり使うんですもの」 「…うん、あのね、良心的っていうか、価値のあるものを低料金で、って感じかな」 「あら、そう。良心は大事よね」 「そうだね」 「あなた、それ、もう食べないの?」「いや、いま、食べようと思って…いや、よかったら食べたまえ」 「ありがと、いただくわ、ねえ、あなたってば、ワインついでよ」 「え?!また飲んでしまったのかい?もうないよ」 「あら。じゃもう一本頼んで」 「え?いくらリーズナブルでも二本も飲んだじゃないか」 「いいじゃないの」 「いや、ちょっと三本となると…」 「だいじょぶよ。私こう見えても強いのよ、お酒」 いや、君はどう見ても強そうだよ…と思う山野井譲、四十八歳であった。 目の前に緑が広がっている天然温泉のジェットバスで体が芯からほぐれていく。ゆったりと広い湯船につかりながら、私は妻との出会いのときを思い出していた。 「すみませーん!ボール取ってくださーい」 白いスコートが目に眩しく、私はうなだれたままボールを投げた。 あ、ちょっと待って、それは違う。それは、違う女性だ。妻の静とは、確か大学の文学のサークルで知り合ったのだった。危ないところだった。 妻サービスのつもりで、「明日はホテルのテニスコートで久しぶりにテニスでもやらないか。君はあの頃とちっとも変わらないよ」などと言おうと思っていたが、あやうく墓穴を掘ってしまうところだった…。 入浴中も愛する妻から心が離れることがない、山野井譲、四十八歳であった。 「どうも、お世話さまでした」 「ありがとうございました。ゆっくりしていただけましたか?」 「ええ、お風呂も、お料理も、楽しませてもらいました」 「それはよかった」 「ちょっと、ちょっと、あなた」 「何だい?」 「見て、これ、安いわよ!」 「何だね、みっともない」 帰りのフロントで妻は私に一生懸命、明細を突きつける。 「ワインよ、ワイン!」 「ん?」 「ほら見てよ、だからリーなんとかって言ったじゃないの」 「おや、ほんとうだ!ほんとうに安いね!」 「だから、もう一本頼もうって言ったじゃないの!」 「君ね、もう一本飲んでいたら、今朝は起きられなくなっていたよ」 「そんなことないわよ、私ほとんど飲んでないもの」 「…何を言ってるのかね」 「あーあ、残念だわ。今度来たときは、絶対三本飲むわよ」 「…そうだね、そうしてくれたまえ」 「ね、いつ来る?」 うちの営業マンもこれだけ計画性があったら…と思う、山野井譲、四十八歳であった。 「今日はどうするの?」 「今日はね、栂池の自然園にでも行ってみようか。ゴンドラやロープウェイにも乗れるし」 「いいわね。じゃあ、そうしましょう。お土産は?」 「え?」 「きのう、ちょっと小耳にはさんだのだけど、あざらしの毛皮のバッグがあるらしいの」 「…どこに」 「さあ、それはわからないわ。ノルウェイのセーターとかね」 「…そう、じゃあ、こっちにもどってみたら聞いてみようね」 いつのまに小耳にはさんだのか、女性は装飾品に関しては、恐ろしいほどの嗅覚と聴覚を発揮するものだ。 (あざらしのバッグ、ノルウェイセーター、それだけで済むだろうか) 政治家が皆女性だったら、日本の経済はどうなるだろうか、興味深いところである。 〈つづく〉 |